依那古散策

 春には桜が咲き、秋には黄金色の田園風景が広がる、自然豊かで四季折々の姿を見せる街。数多くの史跡や名勝が残され、守り続けられてきた依那古。
 山に、川に、野辺に、地域に…、人々が集う街。そんな依那古を紹介します。

依那古散策マップ

数字のボタンを押すと詳細をご覧いただけます。

猪田神社 依名古神社(いなこじんじゃ) 秋葉大権現(あきばだいごんげん) 不動明王(ふどうみょうおう) 仲福寺(ちゅうふくじ) 西念寺(さいねんじ) 正興寺(しょうこうじ) 不動寺(ふどうじ) 済口寺(さいこうじ) 法專寺(ほうせんじ) 崇恩寺(そうおんじ) 蓮勝寺(れんしょうじ) 長隆寺(ちょうりゅうじ) 垂園森(たれそのもり) 哀園森(あわれそのもり) 石山古墳(いしやまこふん) 財良寺跡(ざいりょうじあと) 下郡遺跡(しもごおりいせき) 森脇遺跡(もりわきいせき) 西出古墳(にしでこふん) 糠塚(ぬかづか) 庚申塚(こうしんづか) 伊勢三郎生誕の地(いせさぶろうせいたんのち) 藤堂玄蕃家遺跡(とうどうげんばけいせき) 狭間城他の城跡(はざまじょうほかのしろあと) 木津川堤桜並木(きづがわつつみさくらなみき)

    ※散策マップは依那古地区市民センターにありますので、
     ご要望の方は声掛けをお願いします。

1 猪田神社

猪田神社

 古くはこの地に伊賀郡の郡衛(現在でいう役所)が置かれていてその政治経済の中心として栄え、神社の森を神奈備(かんなび=神が宿る領域)として祭祀を行ったのが起源と考えられている。

 本殿は一間社流造、檜皮葺で全体に丹塗りを基調に極彩色を施す桃山時代の建築様式が取り入れられたもので、県の有形文化財に指定されている。

猪田神社の鳥居(いだじんじゃのとりい)

猪田神社の鳥居(いだじんじゃのとりい)

 猪田神社の鳥居は『両部(りょうぶ)鳥居)』と言い、主柱を4本の稚児柱で支え、貫(ぬき)は主柱から左右に出て楔(くさび)や額束(がくつか)がある構造になっている。

 屋根には本瓦が葺かれていて『木造の本瓦が葺かれている明神系両部鳥居』は、宮島の厳島神社や山梨の北口本宮浅間神社など日本に数例の鳥居である。

雨石・晴石(あめいし・はれいし)

雨石・晴石(あめいし・はれいし)

 猪田神社には参集殿の裏の祠に満珠石(まんじゅいし;雨石)、入口の鳥居の脇に干球石(かんじゅいし;晴石)という2つの霊石が祀られている。満珠石は丸い形をした石で、降雨祈願の時に満珠石を川に浸けると雨が降り、干珠石は月型の石で長雨の時に干珠石を浸けると雨が止んだと伝えられており、昭和30年頃までは神事が行われていた。

渭水八景屏風(いすいはっけいびょうぶ)

渭水八景屏風(いすいはっけいびょうぶ)

 慶応2年(1866)に奉納された絵馬で、近江八景にちなみ、猪田神社周辺の名勝を描いたもので、江戸時代の猪田神社の様子がうかがわれる。

 「住吉秋月」「真名井夜雨」「日新山晩鐘」「馬場晴嵐」「鷺森落雁」「手代堰帰帆」「界外夕照」「弁財天暮雪」

の八景が描かれている。

さぎの森(さぎのもり)

さぎの森(さぎのもり)

 江戸中期に記された「三国地志」によると、延暦3年(784)に神社前方の森に白鷺が住吉神と銘する白羽の矢をくわえて降り立ち、その矢には『この地に社殿を建て、猪田神と住吉神をあわせて祀るように』との記述があったことから猪田神社が建てられたとされている。

 その森は『さぎの森』として現在も残されている。

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2 依名古神社(いなこじんじゃ)

 猪田道駅の南東にある延喜式内社である。もとは高野川原(場所は不詳)にあったが、江戸時代初期、木津川の洪水のために現在の地に遷座された。戦国時代の土豪の小泉太郎左衛門の屋敷跡で、筒井定次の陰謀により太郎左衛門が殺害されたのち筒井家に不幸が続いたために、社を立てて小泉太郎左衛門の霊を祀つていた場所に依名古神社が移され現在の形になった。

3 秋葉大権現(あきばだいごんげん)

 昭和の初め頃に、市部地区内で大火事があり50戸近い民家が焼けた。その後、二度とこう言った災いが起きないようにと願い、地区を見下ろす丘の上に社が置かれた。2年毎に静岡県浜松市にある秋葉三尺坊大権現を祀る火防の秋葉寺をお参りしてお札を持ち帰り“秋葉さん”を守られてきている。神社の形態をしているが、祠には神仏習合の神のお札が収められている。

4 不動明王(ふどうみょうおう)

 天童山からの湧き水が小さな滝のようになって流れ落ちる所に「不動滝」と呼ばれる滝がある。そこに「大峯滝ノ不動明王」があり不動明王が祀られている。

 不動明王は大日如来の化身とも言われ、滝行などを行う修行者を助け修行の邪魔をする『魔』から守護してくれるとされており、この地でも修業者が修行をしたと考えられる。

5 仲福寺(ちゅうふくじ)

 天台真盛宗薬草山仲福寺。古くは薬師如来を本尊とする真言宗の祈祷寺であったが、明治維新後に「慈恩寺」と「長福寺」が統合され「仲福寺」になったとされる。

 慈恩寺から移された薬師如来像の他、鎌倉時代から江戸時代のものと伝えられる『大般若経』経巻600帖が保存されており、経巻は現在も厄除け大般若、植付大般若の法要で使われている。

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6 西念寺(さいねんじ)

西念寺(さいねんじ)

 天台真盛宗弥勒山西念寺。同じ依那具の仲福寺の北側の元山辺にあった庵寺を移して建てて、西念寺としたとされている。

 墓地の入口には依那具地区と関りの深い小泉家の慰霊碑とされる板碑が残されている。高さが約80㎝程あり、この大きさで、この薄さの板碑は珍しいとされている。

7 正興寺(しょうこうじ)

正興寺(しょうこうじ)

 曹洞宗平田山正興寺。上野徳居町の廣禅寺の系列で、永平寺とのつながりの深い寺院である。明治時代には市部地区内に「正應寺」「願興寺」「法禅寺」の3つの寺院があったが合併して現在の「正興寺」となった。

 本堂東側には無縁仏の石碑が納められ、「七体地蔵石仏」と呼ばれる石仏も収められている。

 門前には桜が植えられ、住民の憩いの場となっている。

8 不動寺(ふどうじ)

不動寺(ふどうじ)

 真言律宗引谷山不動寺。平安時代の貞観年間(859~876)に開創されたのが最初と言われ、隆盛と荒廃を繰り返し、西大寺によって復興再建され、更に天正15年(1587)に現在の不動寺として再建された。

 伊賀市の指定文化財である本尊の不動明王や地蔵石仏などが残される。

 天正伊賀の乱での焼失、また明治時代の盗賊による放火での焼失等の 苦難を乗り越えて現在に至っている。

9 済口寺(さいこうじ)

済口寺(さいこうじ)

 臨済宗東福寺派・臨川山済口寺。江戸時代の元和2年(1616)に上野恵美須町にある山渓寺の開祖「大年周永禅師」により東福寺の末寺として現在の場所に開基され、明治初期に「吉田寺」「善明寺」等が統合された。

 その後、昭和初期に宗派を超えた紛争があったものの、当時の住職が保育園設立するなどして融和を図り昭和41年からは山渓寺の末寺として現在に至る。

10 法專寺(ほうせんじ)

法專寺(ほうせんじ)

 浄土真宗本願寺派・法流山法專寺。建立は室町時代の応永19年(1412)とされ、当時は伊勢の善覚寺・伊賀の法專寺と言われたほどの格式と勢力があり、伊勢から奈良までの2000戸以上の檀家を束ねる寺院で、伊賀の浄土真宗派の寺院の約半数は法專寺の末寺だと言われている。

 本堂は鮮やかな色彩の装飾品や絵があり、境内には伊賀の乱でも焼け残ったとされる半鐘が残されている。

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11 崇恩寺(そうおんじ)

崇恩寺(そうおんじ)

 真言律宗石田山正蔵院崇恩寺。創建は天長年間(812-834)年と伝えられ、寺跡からは6世紀の鉄製品や木簡が出土している。もともとは「正蔵寺」と「崇恩寺」の2寺があったが明治初年に合併して正蔵院崇恩寺となった。

 元日には初祈祷として、無病息災五穀豊穣を祈念して護摩供養が現在も続けられている。

12 蓮勝寺(れんしょうじ)

蓮勝寺(れんしょうじ)

 真言宗豊山派宝珠山蓮勝寺。平安時代に古郡の常福寺の末寺として開創されたとされている。天正伊賀の乱で焼失したが、元禄年間に上郡の岩ノ上に再建され、後の昭和初頭の大洪水で流されて現在の高台に移築された。ご本尊は『馬頭観世音菩薩』で動物達の守護仏で、憤怒の形相で怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し馬が草を食べるように煩悩を食べ尽くして災難を取り除くと言われいる。

13 長隆寺(ちょうりゅうじ)

長隆寺(ちょうりゅうじ)

 真言律宗日新山長隆寺。平安時代の初期730年頃に開創された寺院で「猪田神社の別當(神社の運営管理者)」と記されており、元々猪田神社と関りが深い寺院である。

 平安時代の後期から末期に彫られたと言われる県指定文化財の『木造大日如来坐像』が本堂に置かれ、収蔵庫には国指定の重要文化財である『木造薬師如来坐像』が安置されている。

14 垂園森(たれそのもり)

垂園森(たれそのもり)

 紀貫之が詠んだ「われならで たれ其森の玉桜 たまさかにもや 色にそむべき」の一句に代表されるように、清少納言の『枕草子』でもとりあげられ、平安時代から江戸時代の多くの歌人や俳人が題材として扱い、当時の日本の代表的な森の一つとされた名所が市史跡の垂園森である。

 垂園森の中の祠には豊作を祈願し倭の三輪山から勧請した大物主神が祭られている。 

15 哀園森(あわれそのもり)

哀園森(あわれそのもり)

 垂園森の北に位置し、垂園森と合わせて平安時代からの歌枕の地とされている。

 西行法師の「うつせみのかりの此の世に住みながらなくねそうすきあはれその森」や、僧正遍照の「秋過ぎてあはれをもらすあはれその森のしぐれを袖にしるかな」等哀園森を詠んだ歌も多い。

 垂園森と同様に市の史跡とされている。

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16 石山古墳(いしやまこふん)

石山古墳(いしやまこふん)

 4世紀後半から5世紀初頭のものとされ、全長120m、後円部径70m、前方部幅40mの前方後円墳で、古墳墳丘の表面を覆う葺石が特徴的で石山古墳と名付けられたと言われる。

 円筒埴輪や家、盾、蓋などの形象埴輪が並べられた、学術的にも貴重な古墳であり、三重県では御墓山古墳(188m)、名張市の馬塚古墳(142m)に次ぐ3番目の大きさとなる。

17 財良寺跡(ざいりょうじあと)

財良寺跡(ざいりょうじあと)

 伊賀鉄道の丸山駅の北、旧丸山中学校の西部に奈良時代の寺院「財良寺」があったとされている。遺構などの検出はされていないものの奈良の古代寺院と同じ軒丸瓦の出土や、東大寺要録に「伊賀国 財良寺 右天武天皇御願」と記されており、周辺では唯一の古代寺院であったと考えられる。大正時代の古地図には『大門』『市場』といった古地名も記載されておりその名残であると言える。

18 下郡遺跡(しもごおりいせき)

下郡遺跡(しもごおりいせき)

 弥生時代か中世に至る複合遺跡で、壬申の乱後に伊賀郡衛がこの地に置かれたとされている。昭和53年の河川改修に伴う発掘調査では木簡が出土しており、当時の郡衛の存在を裏付けるものとして、市の有形文化財にも指定されている。

 江戸時代以前は木津川は現在より東側を流れていたとされ、下郡一帯が伊賀郡の中心地であったとする遺跡群である。

19 森脇遺跡(もりわきいせき)

森脇遺跡(もりわきいせき)

 垂園森の北側、哀園森を含む一帯にあったとされる遺跡で、縄文時代のどんぐりの貯蔵穴や弥生時代の竪穴式住居跡や飛鳥時代の倉庫群が検出されている。

 コの字型の建物の配置や倉庫群等規則性のある建物の配置から、伊賀国伊賀郡の郡司層の居宅でこの地を統括する役割を果たしていたものと推定される。

20 西出古墳(にしでこふん)

西出古墳(にしでこふん)

 猪田神社裏の私有地内で令和3年に発見された前方後円墳で、大きさや形から6世紀代のものと推定される。当時の時代背景からして、ヤマト王権と強い結びつきのあった豪族のお墓であったと推定される。

 古墳自体は江戸時代の行者堂建設の際に削り取られ、石室に使われたと推定される石も行者堂の一部に使われるなどして原形はとどめておらず今後の調査が待たれる。

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21 糠塚(ぬかづか)

糠塚(ぬかづか)

 伊賀民話にある『ぬかづかの姫』の逸話となっている遺跡。戦の時にこの場所でお米をかしていた村娘が流れ矢で命を落とし、研ぎ汁を川に流してしまった。その後、毎年夏になると決まった日に川の水が白く濁ってしまっていたが、ある時一人の僧侶が通りかかり、同じ場所で米をかしお経を唱えて村娘の霊をともらった場所に残される塚で、元々は前方後円墳である。

22 庚申塚(こうしんづか)

庚申塚(こうしんづか)

 奈良時代に伝わった道教にまつわる話で、江戸時代に全国的に広まった庚申信仰にまつわる石碑が残されている。

 人の体内にいる「三尸」と言われる三つの虫が60日に一度庚申の日に、人が眠りにつくと体内から抜け出して天に昇り。人の罪悪を告げ口して寿命を縮めると言う言い伝えで、この庚申の日には眠らずに一夜を過ごすと言う習慣があり、集落の出入口に庚申塚が残っている。

23 伊勢三郎生誕の地(いせさぶろうせいたんのち)

伊勢三郎生誕の地(いせさぶろうせいたんのち)

 才良の済口寺の境内に残されている碑で、才良が伊勢三郎義盛の生誕の地と言われている。

 伊勢三郎義盛は「平家物語」や「義経記」、また現代歌舞伎にも出てくる人物で、源義経の家来の弁慶と並ぶ四天王の一人だったと言われている。

 伊勢三郎義盛の母親が才良の出身で、波乱万丈の人生を送る事となる義盛の生誕の地とされている。

24 藤堂玄蕃家遺跡(とうどうげんばけいせき)

藤堂玄蕃家遺跡(とうどうげんばけいせき)

 依那具は江戸時代、5000石の伊賀付侍大将をつとめた藤堂玄蕃家の領地で「玄蕃山」と地元でいわれている所には4代目当主良次の墓がある。山には春につつじが咲き乱れここで領主や家来、地元の人も招待されて大宴会が行われたと伝えられている。

 更にそこから南に向かうと「権現さん」といわれる藤堂玄蕃家の遥拝所があり、遠く青山の奥山権現を拝むことができる。

25 狭間城他の城跡(はざまじょうほかのしろあと)

狭間城他の城跡(はざまじょうほかのしろあと)

 伊賀鉄道・猪田道駅の北側の丘陵地に「三主の城」と言われる「狭間城」「北之城」「城山城」の三つの城跡がある。

 伊賀の『三国地志』に【依那具村 高岡氏堡・新荘氏堡・関名氏堡】の記載があり、この三つの城に当てはまると考えられ、伊賀の有力者である小泉家の詰域で、伊賀の南部を守る役割を担っていたと考えられる。三つの城が寄り添う形で築かれた珍しい城郭郡跡である。

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26 木津川堤桜並木(きづがわつつみさくらなみき)

木津川堤桜並木(きづがわつつみさくらなみき)

 木津川堤の桜は、平成元年の木津川の河川改修と郡橋の架け替え工事に関連して地元の老人会の方々が三重県と調整して、その年の12月に苗木80本を植樹されたもので、平成5年の春に花が咲き始めた。

 その後南側へと植樹を進め、今では140本を超えるの桜並木となり、毎年春の訪れとともに地域や伊賀市や名張市、また県外からも訪れる桜の名所となっている。